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「歴史修正主義」に抗するために
~放送と公権力の関係についての私見③~

2016年3月11日

特別な日に
閣僚やら議員のトンデモ発言が続いたことにより、一旦は沈静化しかけた「放送」と「公権力」を巡る議論が、高市総務相のいわゆる「停波」発言を巡って主に新聞紙面上では議論が再燃しているような状況です。
一昨年の秋あたりから始まったこの論争については、昨年11月にこのホームページ上で発表した私見①と②で1950年前後の放送法の制定にまで遡って自分なりに検証してみました。
この私見についてはおかげさまで想像以上の反響がありました。
読んで頂いた方々、改めてありがとうございます。
そこで今回は、好評に気を良くしてというか、お約束通りというか、ちょっとお約束した流れに至る前にもう一度、この放送と公権力の間での放送法を巡る「対立」が何故、どのように生じており、歴史的に見てどちらによりがあるのか?検証してみたいと考えています。
個人的なことですが『海街diary』の受賞式や新作の映画『海よりもまだ深く』(5月21日公開です)のキャンペーンで忙しい合間をぬって、このような作業に取り組む気持ちになったその原動力ははっきり申し上げると「怒り」以外の何ものでもありません。
怒りの矛先はこれもはっきりしています。
「歴史修正主義」です。
詭弁を弄して法律の条文に手を加え、舌の根も乾かぬうちにそれを生来手にしている既得権益であるかのように振る舞い始め、それでも変えようのない歴史については自分の都合の良いように解釈を変え、無かったことにする―――そのような態度に対してです。
それはもちろん「公権力」の側にのみ存在するわけではありません。
彼らが私たちに見せている歴史に学ぼうとしない(大仏次郎はそれが日本人の特性だと看破しましたが)「恥知らず」な態度は、僕も含めた放送人のそして彼らを代表として選んだ私たちの姿そのものであるのだと考えています。(思いたくないけれど)
それは十分踏まえた上で ──── それでもここ一年ちょっとの間に公権力側から発せられた放送についての発言と、そこからうかがわれる思惑、底意は、さすがにちょっとこれは、いくら何でも、とため息を吐かざるを得ない「無知」と「蒙昧」にあふれたものでした。
今回の第3弾では、この間に公権力が放送に対して行った発言、書かれた文章の中からいくつかをピックアップし、どこに事実誤認がありどこに歴史修正主義が顕わになっているのかを検証してみます。
私見①②と重複する部分も多々あるかと思いますが、前2回同様、出来るだけ冷静に熱くならず、面白く読みやすいものにしますので、もうすぐ選挙権を手にする高校生のみなさんも是非読んで下さい。
とはいえ、僕は法律家でも、研究家でもない映像を業にするいち制作者に過ぎませんので、多くの研究者の文献資料をひもとき、受験生のようなにわか勉強をしたものをまとめたに過ぎません。ですから、舌足らずな部分も多々あると思いますし、誤解もあるかも知れません。もし、ご専門の方で気付いた点がありましたらご指摘いただければ幸いです。


さすがに公権力の側からの発言やそこから垣間見られる認識がここまで浅薄だと学者やジャーナリストからも数多くの至極まっとうな批判の声が専門誌だけではなく人目にふれる形であがっているので、正直僕が新たに発見・発掘し、そこにページを加える価値のある歴史に埋もれた事実はほとんどないかも知れません。
しかしまぁ…「入門篇」的に、「放送」と「放送法」に興味を持つきっかけにして頂けるだけでも意味があるかと思いますし、何よりこのような形で一度吐き出しておかないと自分の中にたまり、淀んだ怒りがあらぬ方向に向かってしまいそうだったという個人的な事情も、実はペンを執った理由としては大きいのかもしれませんが。

さて、本題に入りましょう。
今回取り上げ、考えてみたいと思った(けっしてあげ足を取るだけではなく)トピックは次の5つになります。

① 2015年3月3日。衆院予算委員会での安倍首相の発言に代表されるような
「不偏不党」を放送局の義務だという考え方について。

② 2015年4月28日。「クローズアップ現代」の“出家詐欺”を特集した番組に対して出された
  山本(高市)早苗総務相の「厳重注意」

③ 2014年11月20日。自由民主党筆頭副幹事長 荻生田光一 報道局長 福井照の連名でNHKと在京テレビキー局各社に送られた
  「選挙時期における報道の公平中立ならびに公正の確保についてのお願い」という文書の中の「公平公正中立」という表現について。

④ 高市総務相の「政治的公平」は「大臣である私が判断する」等の発言。

⑤ 高市総務相の「停波の権限を有する」発言と、それを擁護する形で発せられた2016年2月9日の菅官房長官の「当たり前のこと」
  さらに10日の安倍首相の「従来通りの一般論」発言。

まぁ、こんなところでしょうか。これらを順番に追いながら論を進めていくのも良いのですが、ちょっとカタログ的になり過ぎるかも知れないと考え、一連の論考の中で時間軸に沿って放送と公権力の関係の変遷を追いながら、結果的に上記5つのトピックについて随時触れていくという形式をとりたいと思います。
とはいえ、とっかかりとしてまず①の「不偏不党」から始めましょう。

「不偏不党」については、昨年11月17日の私見①②でもかなり詳しくその成り立ちと公権力の誤解について触れたのですが、もう一度おさらいしてみます。

「不偏不党」は電波行政の義務である
1950年に放送法が制定された当初、放送局を規律する権限は公権力ではなく「電波監理委員会」が持っていました。当然、非政治的な組織です。
だからこそ、この組織だけに放送を規律することが許されていた。

さて、1952年にその「電波監理委員会」が廃止になり、放送法の内容はそのままに主語だけが郵政省(今の総務省)に書きかえられる。簡単に言うと、本来権力監視(この対象の中にはもちろん政府や各省庁が含まれます)の役割を担っていた放送局が権力下に組み込まれ、規律されるというように、関係が逆転した。
普通に考えたらそんなことはあり得ない。もしそうするのなら、法律の文面くらいもう一度全部0から書き直すべきなのに、そんな手間すらかけなかった。
当然そのことに対しては疑義が発せられます。
時は1952年5月23日、第13回国会 電気通信委員会。
質問に立つのはやがて広島市長になる社会党の山田節男。
答弁するのは電気通信大臣、ご存知、佐藤栄作です。安倍首相の大叔父にあたる人ですね。

山田はこう、佐藤を問いただします。
『電波行政というものは(略)飽くまで不偏不党でなければいけない。而、公平でなくちゃいけない。電波というこれは国民の全体の共有物なんですから。(略)なぜこういう本質を持っておるものを郵政省の一局に入れるのか』。
木に竹を接ぐように、水に油を一緒にしたような変更は、「常識では考えられない」と。

佐藤はこう答えています。
『不偏不党という点になりますると、只今政党政治ではありますが、行政の部門につきましては不偏不党であることは、これは当然であります。
又、その意味においては、これは何ら国民から疑惑を受けてないのです。(略)』

ここで佐藤さんは「不偏不党」という言葉を行政に向かって使っています。
これはとても大事です。覚えておいて下さい。
この言葉のベクトルが、安倍首相が放送局に対して使っている「不偏不党の放送をしてもらいたいのは当然だ」という発言と比べてみると、180度逆であることは、恐らくこの部分を読んだだけでも明らかだと思うんです。
さて、どちらが放送法の趣旨に合致していますか?
両立はしない。真逆です。
もちろん正しいのは佐藤さんです。
さすがに法律が出来てまだ2年。この法律がどのような目的で作られたものか、まだその主趣くらいは把握出来ていた。当時の政府にこの約束を守るつもりがあったのかどうかはわかりませんが。
時代が変わっても、放送法の1条や3条が変わっていない以上、安倍首相のような解釈の変更が正当化される根拠は全くないと僕は考えますが、いかがですか。

監督権を郵政省に移すことについては委員の水橋藤作もこう危惧を述べます。
『そこで仮に例を挙げまするならば、今のテレビの認可をするにいたしましても、一党一派に偏したところの場所から命令が出てそしてその問題の起りつつあるテレビなどに、大きな国民の誤解を受けたりなどしないような行き方をするためにも独立したものがいいと、誰にも拘束されないで、監理委員会独自の立場で最も公平に運営されることが望ましいと、我々こういうふうに考えるので、この点仮に今の内閣が変つた場合は、まあほかの内閣、政党によつていろいろ電波を左右される、又その政党によつて、国際情勢が変つた場合に電波の監理も又おのずから変つて来る、政党によつて左右されるというようなことは電波行政の上に非常に悪影響を及ぼすのではないかというふうに考えまするが』。
正しい指摘です。政権交代がある度に放送局への規律の基準が右に左にぶれたらたまらない。そんな態度を「自律」とは呼ばない。「他律」です。

それに対して政府委員、綱島毅は、こう述べています。
『私どもは電波行政は、特に言論機関にも関係がございまするので、一党一派に偏しない行政が必要だと考えております。(中略)こういうふうに一党一派に偏しない行政が必要であるという考え方は、今後の電波行政を行われますにつきましてもやはり私どもは必要かと考えておるのでございまして、こういう観点から、私どもといたしましては、内閣にも再三現監理委員会を存続するほうがいいと思うということを縷々説明を申上げた次第でございます。
今度の郵政省設置法においても、電波行政が不偏不党でなくちやならないという精神が組入れられまして、電波監理審議会というものが附置されまして、その審議会の委員はやはりこういうふうに一つの政党に属するかたが絶対多数を占めないようにという規定も残されておりますし、又異議の申立その他に対しましては審議会の決定が大臣を拘束するようなふうにもなつております(後略)』

放送局は郵政省の監督下に入るが、行政は政党(ここでは政権与党)に左右されない不偏不党をつらぬくし、例えば司法的な権限に関しては、その一審的な役割は、郵政省ではなく、新しく作る電波監理審議会とその決定が、大臣を拘束する形になっているから大丈夫と説明しているわけです。
質疑はさらに続きます。
文面からもわかりますが、かなり白熱します。
山田は再び鋭い指摘をします。

この放送局を監督する権限を郵政省に移したら、
『これは放送免許の認可とか取消について利権問題が必ず起きて来ると思う』と。
つまり、放送局、放送業界に対する大臣の権限の肥大化を心配した。当然です。昭和27年4月4日の読売新聞は「電波監理委廃止とテレビ」と見出しをつけ、「NHK独占のおそれ」「政府権限集中化のねらい?」と自らも日本最初のテレビ放送網設立へ動いていた当事者としての危機感を表明しています。さらに記事の中で連合国の関係者の話として次のようなコメントを紹介しています。
「この分野では政治は出来る限り排除されねばならない、一個人一大臣が周波数の許可を与えたり、ラジオやテレビの諸法規を決める絶対権限を持つべきものでない」(中略)「もし一個人の権限で決定されるようになったら、情実によりあるものに経済力を与えたりニュースを統制したり、また昔の政府放送独占が行われるなどさまざまな権限濫用の弊がでることになろう」。
全うな批判ですね。
しかし、この程度の質疑で社会的な議論の盛り上がりもなくこの放送法は改正されてしまう。

この後、郵政相になる田中角栄は、放送局の開局ラッシュを目前にひかえた状況で、許認可権を一手に握り、テレビ局への支配を強めていきます。系列のテレビ局がどうしても欲しい新聞社もそのコントロール下に置きます。そして、全うな批判を載せていた読売系の日本テレビでは昭和40年には当時大蔵大臣に出世していた田中角栄をレギュラーに『大蔵大臣アワー』なる、実質的には自民党、角栄PR番組を放送するという蜜月ぶりを示すことになります。
本来であればこの電波監理委員会から郵政省(つまり国家権力)への監督権の移行を批判するべき各新聞社が放送局開局の許認可欲しさに批判を控えたのではないかと推測する研究者もいますが、どうでしょう。反論ありますかね?新聞社のみなさんは。

さて。60年以上経た今、山田さんの危惧と、綱島さんの弁明のどちらが正しかったのかは放送局を巡る現実を見れば残念ながら一目瞭然でしょう。それは、その後郵政相のポストが「利権」としてずっと田中派に占められていく歴史を見ただけで明らかです。
最早、政府は最初からこうなることを目論んでいたと考えた方がいいのかも知れません。
公権力による、公共パブリックから国家ナショナルへの放送の奪還の第1歩目が、この監督官庁の変更だったのだと歴史は教えてくれます。
利権がらみという非常に不透明な状況下で放送局に対する規律の権限が公権力に移ってしまったことがやはりその後の全ての矛盾の元凶になっていると僕は思います。

「厳重注意」という処分(罰則)は放送法の条文には存在しない。
こんなに簡単に規律の権限を与えてしまった(これについては異議がありますが)からこそ、「厳重注意」などという物々しい名前の行政指導が監督!!官庁から放送局に対して繰り返し出されるような事態を生んでしまうわけです。

昨年4月に総務大臣 山本(高市)早苗の名前で出されたNHKへの「厳重注意」を一部掲載します。

日本放送協会
 会長 籾 井 勝 人 殿
 総 務 大 臣   
山 本 早 苗  

「クローズアップ現代」に関する問題への対応について(厳重注意)

 貴協会が平成26年5月14日に放送した「クローズアップ現代 追跡“出家詐欺”~狙われる宗教法人~」において、事実に基づかない報道や自らの番組基準に抵触する放送が行われたことは、公共放送である貴協会に対する国民視聴者の信頼を著しく損なうものであり、公共放送としての社会的責任にかんがみ、誠に遺憾である。

 放送法(昭和25年法律第132号)第4条第1項第3号においては、「報道は事実をまげないですること」、また、同法第5条第1項においては、「放送事業者は、放送番組の種別及び放送の対象とする者に応じて放送番組の編集の基準を定め、これに従って放送番組の編集をしなければならない」とされているところ、今回の事案はこれらの規定に抵触するものと認められる。
 よって、今後、このようなことがないよう厳重に注意する。

 (後略)

(下線は是枝が加えました)

さて、この文章のどこに問題があるか?
担当の大臣が問題のあった放送局に対して、放送法違反があったのだから、厳重注意をした。何か問題でも?と高市大臣は言うでしょう。
しかし、放送法にはこのような罰則はないのです。
では、この「厳重注意」が何に基いているかというと「行政手続法」です。そこは省略されている。
だからこの文章を正確に記すとこうなります。
「~~~今回の事案は(放送法の)これらの規定(4条)に抵触するものと認められる。よって今後このようなことがないように行政手続法に基づき「行政指導」(厳重注意)する」
では、なぜこう書かないのか?
まぁ印象操作でしょう、目的は。これを省けばあたかも放送局を放送法に基づいて「処分」したように見えますからね。
繰り返しますが、放送法は憲法が、公権力の私達への約束であるのと同様、この場合は放送局への「介入はしないよ」という約束が主な目的です。だから罰則がない。だから4条は倫理規範なんです。にもかかわらず、そのことを意図的に隠蔽し、4条は放送局が守るべき法規だという誤読を正当化するためにここに本来登場すべき2つの法律を1つにしている。
姑息ですね。

そもそも公権力を監視しなくてはいけない、その責務を担っている放送局に対して、例えば交通違反を道路交通法によって国土交通省が取り締まったり行政指導するのと同様に監督権限に基づいて指導、処分をすること自体、本来慎むべき態度だと考えられて来ました。(特に4条については)
この点について「日本の放送法の特徴と放送の自由」という論文の中で鈴木秀美さんがこう記しています。

『学説では、放送事業者の表現の自由の観点から、番組編集準則は「精神的・倫理的規定」にすぎないと考えられており(一種の合憲限定解釈)、番組編集準則に違反したことを理由に電波法七六条による運用停止や免許取消を行うことはできないし、行政指導も許されないと考えられている。その背景には、放送行政が、一九五四年に廃止された電波監理委員会のように政治からある程度の距離をとることが可能な独立行政委員会ではなく、独任制の大臣に委ねられているという監督の仕組みについての問題がある。米、英、仏、独などいわゆる先進国では、放送行政の担い手は、通常、行政府から独立した合議制の監督機関に委ねられている。かつては郵政省もこの問題を意識して、番組編集準則を「精神的規定の域を出ない」と国会で説明していた(鈴木秀美ほか編「放送法を読みとく」百九十五頁[西土彰一郎]参照)』

よくわかりますね。
でも、現政権は「倫理規範」は間違いだ「法規範性」を持つのだ、と言い張っている。最近はさらに「性」がとれて「法規」だと断定的口調になった。では、この4条について、どのように説明されていたのか?前回よりもかなりしつこく歴史を遡って検証してみましょう。

政府・郵政省は4条を判断する権限を与えられていない
1948年6月18日。国会に提出された放送法案について、4条に記されていた「公安を害する」放送に罰則がないことを巡って、次のような質疑が行われています。

──新谷寅三郎参議院議員
『公安を害する行爲に対しては、何故罰則をお附けにならなかつたのか、そういうことはあり得ないというお考えでありましょうか』

──鳥居博逓信省臨時法令審議委員会主査
『第四條そのものはニユース記事の眞実性を守らせるという一つ道義規定でございまして。(中略)何か公安を維持するのは、こうだという昔の治安維持法のような法律でもございますれば、公安の概念は極めて明確に相成りますが、現在日本におきましては、そのような意味での公安を規定した法規は存在しないのであります。従いまして罰則におきましては、概念の明確な風俗壊乱だけに限定いたしました』

つまりですね、「公安」とは何かを規定した法規は法令上存在しない。
それを認定する手続も法定されていない以上、これを理由に罰を与えることは不可能──というのが、行政側の見解だったわけです。わかりやすいでしょ。
これを(倫理規定)と呼ばずしていったい何を(倫理)と呼ぶのだということなのですが──
これに基づいて考えれば4条の「公安」以外の例えば「善良」や「公平」も又、そのことが法律で定められていない以上、何をもって「善良でない」「公平でない」と言えるかという根拠は法律のどこを探しても存在しないわけであるからして、これを罰則を伴う法規範であるというのはどう考えても無理です。不可能です。少なくとも法的には。僕は70年前のこの逓信省の鳥居さんと同じように考えますが、高市大臣はこの4条違反について最終的には「私が判断する」と言っている。でも、何が「公平」か、「公安」かは法的には示されていない。にも関わらず、高市大臣は何を根拠に「不公平」を判断されるのでしょうか?
私であると彼女は言いました。大臣である私が、と。私は公平である。だからこの法律を恣意的に運用することなどあり得ない、と。そう受け取るしかない。
彼女は「神」なのでしょうか?
今まで多くの歴代郵政相は、少なくともそのような傲岸不遜な態度はとってきませんでした。

もう少し歴史のページを辿り直しましょう。
続いて1972年の廣瀬大臣の考え方。
ここで44条と言われているのが、今の4条です。

──国務大臣(廣瀬正雄)
『具体的に申しますと、放送法の第三条に、放送番組編集の自由ということが大原則としてうたわれておりますわけでございまして、さらにまた、番組の内容につきましては、四十四条の三項に準則が列挙されておりますわけでございまして、実は私は郵政大臣になりました当初は、どうも暴力事件が非常に多い、また、放送の内容が卑わいなわいせつな面が非常に多いというような感じがいたしましたので、(中略)四十四条の三項に暴力を排除するとか、あるいはわいせつ行為を排除するとかというようなことをうたってはどうかというような感じが強く一時したことがございますけれど、いろいろ考えてみますと、あの四十四条の三項はどうも道徳的な規定のように考えられるのでございまして、ということはビデオテープなんか全然とっちゃならない、とらないことになっておりますわけでございます。
これは、まあたてまえとしては、当然だと思っておりますわけでございますが、それとあの準則に違反するということになりましても、一つ放送の一部にそういうような事実がございましても、それだけじゃだめなんでございまして、全編を通じまして、あの準則に違反するものでなくちゃならない。全編を通じてそうした事実がなければならない。さらにまた、全編を通じてそういうことがございましても、一回限りではだめでございまして、何度かそういうことが繰り返されて、その放送の習性と申しますか、性格と申しますか、というものが、そういうものだというような事実がなくちゃだめなんでございまして、つまり、総体的に判断をすると。短時間ではだめ、しかも、全編を通じて、やっちゃならぬことが、繰り返されなくちゃならないというようなことを考えますと、なかなかあの準則で違反を捕捉するということは、これは不可能に近い、不可能といっても差しつかえないと思っておりますわけでございます(逓信委員会会議録第二十一号)』

廣瀬大臣は4条の準則で放送法違反を捉えるのは不可能であると明記しています。憲法21条の表現の自由を踏まえた、読み間違いようのないご判断です。
もう少し続けましょうか?
次は77年の国会における政府委員の放送法4条についての答弁です。

──阿部(未)委員
『そこで大臣、政治的な公正を欠いた場合には、先ほど申し上げた電波法の七十六条による規定が適用される。したがって、私いまから申し上げるのは四十四条の三項の二に違反をするかどうかが問題になるわけですが、違反をしておるとするならば、電波法七十六条の適用があると理解をしていいかどうかです』

──石川(晃)政府委員
『お答えいたします。この番組につきましては、御案内のとおりその検閲ができないということになっております。したがって、番組の内部に立ち至るということはできませんから、そういう意味で番組が放送法違反という理由で行政処分するということは事実上不可能でございます』

──石川(晃)政府委員
『その放送番組の基準は、ほかの章にございますようにそれぞれの会社において、いわゆる事業者において決定する。その番組の基準に従って行っていただくわけでございまして。その基準の内容に政府が関与するということはないということでございます』

──阿部(未)委員
『基準の内容に関与することがなければ、放送法四十四条というのは要らぬじゃないですか、これは。放送法四十四条に法定してあるということは、その基準の内容はこれを満たすものでなければならぬということではないのですか』

(中略)

──石川(晃)政府委員
『一例を挙げますと、たとえばここにございますような「公安及び善良な風俗を害しないこと。」とか、あるいは「政治的に公平」ということにつきまして、こういうものは政治的に不公平であるとか、こういうものが善良な風俗を害しているとか、こういうようなことを言っているわけではございませんでして、これはそれぞれの放送事業者において判断して、その趣旨にのっとって番組基準をつくる、こういうことでございます』

──阿部(未)委員
『そこで、その放送基準がつくられて、それが少なくとも政治的な公平を欠くものであるとか、あるいは公序良俗に反するものである場合には、この法律に違反するということになるわけでしょう』

(中略)

──鴨説明員
『四十四条三項にございますのは放送事業者が守るべき準則でございまして、先生御指摘のように、違反をしているという事実が出てくる場合もございますけれど、先ほど局長がお答え申し上げましたのは、そのような四十四条三項違反という事実につきまして、政府、郵政省がこれを判断する権限を与えられていないということをお答え申し上げたわけでございます』

(中略)

──阿部(未)委員
『ですから、私が電波法の七十六条の解釈はだれがやるのですかと言ったら、郵政省がやるとおっしゃったでしょう。放送法四十四条は放送法であるかないかと言ったら、放送法四十四条は放送法である。それなら四十四条の中に明記されておるわけですから、それに違反しておるかしておらぬかは郵政大臣がやらなくてだれがやるのですか、だれが決めるのですか』

──鴨説明員
『これは先ほど局長からも御答弁申し上げました中に触れておりますように、放送法の三条がございまして、先生よく御承知のとおりでございますが、「放送番組は、法律に定める権限に基く場合でなければ、何人からも干渉され、又は規律されることがない。」ということでございまして、番組に関しましてその違反を郵政省が判断する権限がないということは先ほどから申し上げているとおりでございますが、その違反という事実そのものは、放送事業者が放送法三条の趣旨によりまして自主的に判断をするべきものというふうに考えているわけでございます』

これが放送法の4条の倫理規範を巡る解釈の歴史の一部です。
こう歴史を辿っていくと、今の高市大臣の発言や政府の見解の「従来通り」という説明が少なくとも正しくないことぐらいはご理解いただけると思います。

歴代の郵政大臣は、表現の差こそあれ、この基本的な考え方自体は踏襲し共有し来ています。もちろんですね、姑息な手段によってとは言え結果的には放送の監督権は郵政省(現・総務省)のもとに取り戻しているわけですから、彼らも表向き規律の権限がないとは言えません。プライドとして。
だから、次のような言い方になります。放送法によって放送局を取り締まり、処分することは「法律上(法文上)の権限は有しているが放送法の「自主自律」の趣旨を考えると、この権限の行使は現実的には不可能である」つまり「権限はあるが行使出来ない」。
これで答弁としては100点です。郵政省は「従来」ずっとこれでやって来た。これが歴史的な事実です。

では、安倍・菅・高市大臣ら現在の公権力が「従来」と言っているのは、いったいいつからなのか?
彼らの修正された「歴史」はいつから始まったことになっているのでしょうか?
それは恐らく1993年だろうと思います。
この年に何があったか。そう、放送局の報道局長が国会で証言を求められる(つるしあげ)事態におよぶテレビ朝日のいわゆる「椿発言」事件が起きた年です。

「公正・公平」とは量的なバランスをとることではない
「椿発言」について触れる前に、僕の数少ない番組制作上の実体験についてちょっと触れておきましょう。
もう20年以上前になりますが、NHKで臓器移植についての番組を作ったことがあるのですが、
その時に、ある犯罪被害者と、その被害者の遺体とされた身体から臓器を取り出した行為を巡って、司法解剖の結果、きちんとした脳死判定の前に病院が損傷した脳の治療よりも移植を前提に臓器を新鮮に保つための治療というか、投薬を家族の承諾もなくしていたことがわかり、問題となった事件を扱った番組でした。
取材と編集を終え、あとはナレーションを加えるだけになった段階で編集室だったかMAルームだったかに確かNHKの法規部というところから電話が入り、このナレーションとこのナレーションの表現をこう変えて下さい。編集も脳死判定に賛成意見と反対意見の秒数を同じにして下さいと
ほぼ命令に近い形の依頼がありました。
僕がその時に「秒数を同じにすることと、公平さを保つことは次元の違うことではないのですか?」と問い返すと担当者は「秒数を同じにしておけば仮に訴えられた時に負けないのです」と、非常にわかりやすく情けないくらい明快にその根拠を説明してくれました。
今、ふっとその法規部の部屋の風景が頭に浮かびましたから、後半のやりとりは部屋を移し直接話したのかも知れません。
確かにそれは、NHKという巨大組織が、自己防衛の為に考え出したシステムであり、考え方なのでしょうが、それが真の意味での放送の「公平さ」とは無縁のものであることはすぐにわかりましたし、そんなことはこの修正を要求した男の人も充分理解されてはいたのでしょうが。
ただ、こうした小手先だけの「公平」を自己保身の為に繰り返していると、いつしか思考は停止し、誰も深いところでの「公平」とか「公正」について考えることを停めてしまうのだと思うのです。
これは想像ですが、恐らくそのような下地があった上に、よりによって「国営」と「公共」の区別もつかないような新しい会長がやって来て、質的にではない量的な悪平等を現場に指示し、そのことに多くの制作者が黙るか従うかしてしまった。
「公平・公正」は量的にバランスを取るものではなく質的なものであり、放送における「公正さ」とは、例えば番組で批判をした対象に対して、反論の機会を提供することである───と、何で読み習ったのかはすぐには出て来ませんが恐らくテレビジャーナリズムについて書かれた本をひもとけば、1ページ目に書かれているような原則だと、僕はとらえておりました。
そんな原則論を口にすることすら憚られるような現実が、NHK全体を既に覆っているのかも知れません。
そんな息苦しさがNHKだけでなく民放も含めた放送界全体を覆ってしまうような状況の中で、一通のお願いが自民党から各放送局に送られてきました。これは短いので全文掲載しておきましょう。

平成26年11月20日
在京テレビキー局各社
編成局長 殿
報道局長 殿
自由民主党
筆頭副幹事長 荻生田 光一
報道局長  福井 照




選挙時期における報道の公平中立ならびに公正の確保についてのお願い

日頃より大変お世話になっております。
さて、ご承知の通り、衆議院は明21日に解散され、総選挙が12月2日公示、14日投開票の予定で挙行される見通しとなっております。
つきましては、公平中立、公正を旨とする報道各社の皆様にこちらからあらためてお願い申し上げるものは不遜とは存じますが、これから選挙が行われるまでの期間におきましては、さらに一層公平中立、公正な報道姿勢にご留意いただきたくお願い申し上げます。
特に、衆議院選挙は短期間であり、報道の内容が選挙の気趨に大きく影響しかねないことは皆様もご理解いただけるところと存じます。また、過去においては、具体名は差し控えますが、あるテレビ局が政権交代実現を画策して偏向報道を行い、それを事実として認めて誇り、大きな社会問題となった事例も現実にあったところです。
したがいまして、私どもとしては、
・出演者の発言回数及び時間等については公平を期していただきたいこと
・ゲスト出演等の選定についても公平中立、公正を期していただきたいこと
・テーマについて特定の立場から特定政党出演者への意見の集中などがないよう、公平中立、公正を期していただきたいこと
・街角インタビュー、資料映像等で一方的な意見に偏る、あるいは特定の政治的立場が強調されることのないよう、公正中立、公正を期していただきたいこと
── 等について特段のご配慮をいただきたく、お願い申し上げる次第です。
以上、ご無礼の段、ご容赦賜り、何とぞよろしくお願い申し上げます。

傍線は是枝がつけ加えました。

もちろん選挙時の政見放送のような、特殊な状況の場合、候補者に対する取り扱いが通常よりはある種機械的に、あえていえば悪平等になるのもしかたはないかも知れませんが、ここに自民党が記したように発言回数や時間、ゲストの選定に加え、正直、議論が始まってみなければどう話題が広がるかわからない(だからこそテレビとして面白いはずの)テーマを巡る意見のバランスにまで言及しているのは異常です。これは明らかに番組の(内容)(演出)を巡る話で、そもそもこのような形で公権力がというよりは一政党が(監督官庁ですらなく)これから放送される番組に介入するということを放送法は厳しく禁じているのですから。まさにそうしないことこそが、放送が「公平公正」と「不偏不党」を獲得する為の前提条件です。
「偏向放送をするな」と言うこと自体が、自らも認める通り「不遜」で「無礼」であるだけでなく「自主自律」という放送法の趣旨を無視した行為であるわけでこれは「ご容赦」してはいけないのです。むしろ、公権力の側にこそ「行政指導」を出すべきです。にもかかわらず放送局は明確な形で反論を口にしませんでした。

そもそも「公平 中立 公正」を何に基づいてどのように、誰が判断し得るのか?
という根本的な問題についてはあとでもう一度論じることにして、ここではもうひとつの事実誤認を指摘しておきましょう。
この文章ではあえて、(いやらしく)「あるテレビ局が」と具体名は差し控えられて書かれていますがこれは1993年に起きたいわゆるテレビ朝日の椿発言を指しています。
この文面の中に政権交代を画策して偏向報道を行いとありますが、これは間違いです。発端は1993年10月13日の産経新聞のスクープでした。「総選挙で非自民政権誕生を意図し報道 民放連会合でテレビ朝日局長が発言」の見出しで朝刊一面に掲載された記事は、椿さんが「非自民政権が生まれるよう報道せよ、と指示した」という彼の発言を伝えました。
これが大きな波紋を呼び、政権を手放した直後の自民党から放送法4条違反の偏向報道だという批判が噴出するわけです。
しかしその後の調査の結果そのような事実は認められず、偏向報道がなかったことは当時の郵政省も認めています(にもかかわらずこの一連の産経の報道が「新聞協会賞」を受賞したというのは僕には全く理解できませんが)。これが歴史的な事実です。
ですからこの時テレビ朝日に郵政省から出された「厳重注意」は、放送法4条違反に基づくものではなく役職員の人事管理などを含む経営管理面で問題があったというものでしかなかったわけです。自分たちが政権からスベり落ちた理由を政権交代実現を画策した「テレ朝」「ニュースステーション」「久米宏さん」のせいにしたかったその憤まんやるかたない気持ちにはもちろん同情も共感もしませんが、理解はできます。
確かに、具体的な指示を現場にした事実はなかったとはいえ、民放連の「放送番組調査会」での椿さんの発言は話を盛ってしまった一種の「武勇伝」であり、はっきり言えば酒の席で充分な下品な「手柄話」でした。

「自由民主党はそんな恐ろしい組織じゃありません」
93年10月の衆議院政治改革特別委員会で行われた椿さんの証人喚問で、自民党の谷垣さんは次のように質問します。

谷垣委員
『私は、これはやっぱりテレビ朝日は相当な、中での実態解明の努力をされなきゃいけない。
なぜかと申しますと、新聞や雑誌ですと、御発言の内容は後々まで我々調べて、こういうことを言ったじゃないかとか、これはおかしいよということが言えるわけであります。ところがテレビですと、今たまたま私がメモした例を申し上げましたけれども、電波は流れてしまう。ビデオを撮って監視している人なんて余りいないんですね。残念ながら、自由民主党、資料を探しましたがほとんどありません。自由民主党はそんな恐ろしい組織じゃありません。
「ニュースステーション」の番組を逐一撮って後から問題にしよう、こんな組織は恐らく日本の国家組織にもないと思いますし、まあこういうことをやっている組織があったらこれは極めて私は恐ろしい組織だと思うんです。
それが本当の意味ででき切るのは、こういう問題であって、本当にテレビ朝日の報道が不偏不党である、公正であるということをきちっと立証できるのは、その番組をきちっとしているテレビ朝日しか私はないと思います。
外から手を入れないで、内部でやろうと思ったら、それは私はテレビ朝日はきっちりやっていただかなきゃならないと思います。
これは、あなた、椿さんに申し上げることではないんですが、要するに、今内部でいろいろ調査会をやっておられる。この間、サンゴ事件というのがございました。私はあのときのことを聞きますと、朝日新聞は非常に努力された、何も朝日新聞にごまするわけじゃありませんが、相当中で厳しい調査をされたというふうに理解しておりまして、それはりっぱな努力だと思うんです。
私はマスコミが自浄努力ということをおっしゃるんなら、テレビ朝日もぜひぜひそういうきちっと検討されまして、外部の者にもこれは公正だったという結論がはっきりわかるような、まあこの結論がどうなるかわかりませんけども、そういうものをぜひ出していただきたいとご要請して、私の質問を終わります』

谷垣さん。今はかなり無理をされてなのか変節されたのか、政権にひっぱられる形で強面こわもてに振る舞ってらっしゃいますが、ここでの谷垣さんの質問に含まれる自主自律や放送と公権力の関係のとらえ方は、かなりまっ当だと思います。
しかし。1998年、この「椿発言」から5年後、自民党は「報道モニター制度」を創設します。これは全国約2000名のモニターによって「不適切」な報道をチェックし、党に報告、報道機関に抗議することを目的としたものです。
ここで谷垣さんが否定的に触れていたような、放送番組の「ビデオを撮って監視し」「逐一撮って後から問題にしよう」という「恐ろしい組織」に自民党は変質したということですね。恐らくそれは「公平公正」を目的にしたからではなく、二度と政権を手放さないために。谷垣さんはこの変化をどう思っているのでしょうか。
彼らはそのような形でこの事件を教訓にし、4条の解釈を「倫理規定」から「法規範」に大きく舵を切ったわけです。

「椿発言」事件を受けたあとの、93年10月27日の衆院逓信委員会で江川郵政省放送行政局長は次のような答弁を政府と一体化して行っています。行政の不偏不党はどこへやら。

『政治的公平ということにつきましては、放送法は表現の自由を保障する一方で、御案内のように、同法第三条の二の第一項第二号におきまして、放送番組の編集に当たっては「政治的に公平であること。」というふうに求められているところでございます。
そこで、その政治的公平であることというのはどういうことかということにつきましては、不偏不党の立場から、特定の政治的見解に偏ることなく、放送番組が全体としてバランスのとれたものでなければならないと考えておりまして、あわせて同項第四号の趣旨との関連におきまして、政治的に意見が対立している問題については、積極的に争点を明らかにし、できるだけ多くの観点から論じられるべきものだというふうに考えております。
それで、では政治的公正をだれが判断するのかというところでございますが、これは最終的に郵政省において、そのこと自身の政治的公正であったかないかについては判断するということでございます。
ただ、その判断材料につきましては、放送番組の編集に当たっては自主性をたっとぶという立場にございますので、まず、放送事業者において、我が番組における公正さというものを説明してもらう、それを受けて我々が判断するというふうにしているところでございます』

この答弁の大きな問題点はこの発言の中で、「不偏不党」を自らにではなく、明らかに放送局に対するとして使っていることに代表されるように、非常時をいいことに、なしくずし的に放送法を放送局取締法に変質させようとしている点にあります。
ここで公権力は、放送法の成立時の趣旨や目的を怒りにまかせ大きく踏み外した。
これが歴史的事実です。

自民党は放送メディア監視の為の道具として第4条を使うことに決めた。
その出発点にあるのはしかし、彼らが頻繁に口にする「公正・公平」ではなく明らかに政権を手離したことに対する「焦り」や「責任転嫁」だと思いますけれども。だからこそあのような「お願い」が「椿発言」を例にとりながら選挙のタイミングで出てくる。
この「お願い」は当時テレ朝の4条違反疑惑により「停波」がとりざたされたことを憶えている人たちにとっては十分な威嚇になったことでしょう。
自民党はこのような形で椿事件を見事に(悪い意味でですが)教訓にして変質、変節を重ねていった。
では、もう一方の放送の側が、この事件から教訓にしたこと、すべきだったこと、一般の国民に広く知らしめるべきだった事実は何だったのか?
椿さんは放送法4条の「政治的公平」に違反しているということが厳しく批判されたわけですが、そもそも、『放送法は放送された中身を問題にするのであって、テレビ番組以外のところで何を発言しようと、放送法で規制することはできない』(原寿雄『「不偏不党」報道はあり得ない!』(週間金曜日1993.11.12))ことは自明であります。実は問題視されたこの会合の中で椿さんは自民党の「ニュースステーション」に対する執拗な介入、どう喝の事実を明らかにしています。ちょっと読んでみましょう。

『久米宏に対する風当たりというのはほんとにひどいんです、はっきり言いまして。もちろんそれは自民党側なんですが、それはまぁヒステリックと言うよりは、もう僕はやはり暴力的なものであったというふうに考えておるわけなんです。
例えば、昨年山下厚生大臣が、「『ニュースステーション』のスポンサーの商品はボイコットすべきである」というような発言がありまして、それ以来いろいろなレベルを通じて、例えば、社長から私の報道局長から、それから政経部長、現場の記者、そういうものに対する風当たりというのは、抗議と言いますかそういうものはもう数えることが出来ないぐらい多いわけなんです。例えば、私どもの前の社長の桑田は民放連の会長でございまして、「去年の事業税の優遇措置を継続していただきたい」という陳情を民放連会長が行く時、「報道局長もちょっとついて来い」と言われてまいりますと、その民放連会長に対する不満じゃなしに、───民放連会長としてもちろん行っているわけなんですが、───出てくる話は「ニュースステーション」に対する不満なんですよね。「よく、どの面下げてここへ来たか」とか、「お願いお願いでなんだ」とか、これは民放連の専務理事もいろいろご経験なさっていらっしゃると思うんですが。立派な自民党の先生方のおっしゃることというのはまったく腹立たしい感じがいたしました。
(中略)
そのピークがやっぱり自民党の梶山幹事長が、ご承知のように、テレビに出ようと言って「ニュースステーション」スタジオに来まして、その際、久米宏が「ずーっと釈然としなかったんですが、この際お聞きしたい」という前を振りまして、「梶山さんが通産大臣の時に、自動車メーカーのトップを集めてニュースステーションのスポンサーを降りることを求めたという報道が一部でありますが、それはほんとうのことですか」というような質問をしたわけなんです。このあとその自民党の梶山幹事長周辺、それから、自民党関係者のわれわれに対する圧力たるやそれはもう大変なものでした。
私どもの記者はまったく幹事長室への立ち入りは禁止されましたし、「選挙期間中の梶山幹事長の出演は辞退せよ」ということが上から下りてまいりますし、それから、説明に行った政経部長が一時間も放置されて会えないというようなこと、はっきり言いまして、公党の幹事長が行うような行為ではなかったというような印象を私は持ったんです。(1993年9月21日 「民放連第六回放送番組調査会議事録」より)』

ここで問題にし、なおかつ歴史的に教訓とすべきだったのは、彼が語ったような政権与党による番組の介入だったはずです。その介入の事実をそれこそ隠し録りするなり、なんなりして公にし、(もちろん本人をスタジオに呼んで充分反論する機会を与えながら)白日の元に晒すことだったのではないかと思うのです。

公権力の放送への介入、圧力はこの時始まったわけではもちろんなく1960年代のTBSを舞台にその裏で繰り広げられた圧力と、それによる田英夫キャスターのニュースコープ降板等、枚挙にいとまがないほど繰り返されてきたことであって。
もちろんそのようなことこそを戒め取り締まるのが本来の放送法なのですから正しい解釈に基づいて、拒絶するなり反論するなり、鼻で笑うなり、バカなふりをするなり、それぞれすれば良いと思います。基本は。
ただ、この時、その事実を「表」にきちんと出しておけば、そして他局もその「失敗」をあざ笑うのではなく放送界全体の共有財として教訓にしていれば、この椿発言は単なる放送側の公権力に対する「汚点」「失態」としてではない、別の「歴史」として定着出来た可能性もあった。そうすることが出来ていたら、放送と公権力の関係にとって、もう少し違った「今」があったように思います。
それが残念でなりません。
誤った歴史を重ねてしまった結果、放送がその不偏不党や政治的公平を一方の当事者である公権力に処分をちらつかせられながら管理監督されるという、およそ考えられないようなパワーバランスを、公権力も、多くの放送局も、そして視聴者も、当然のものとして受け入れるようになってしまった。そのパワーバランスが変質し放送法が放送局監視法に変質したあとから、自民党の歴史の教科書はスタートしているようです。つまり、1993年以前は前史として封印し、なかったことにした。でなければ彼らの今現在の発言をとても「一般論」「従来通り」とは言えないでしょう、恥ずかしくて。
だからこそ、BPOがその政府の放送への介入を歴史に基づいて「まっとう」に批判した意見書に対して平然と!!大臣から反論が出されるわけです。

平成27年11月6日
NHKの番組に対するBPOの意見についての総務大臣談話
総務大臣談話

1 昨年5月に放送されたNHK「クローズアップ現代」に係る、4月28日の行政指導については、昨年5月に放送されたNHK「クローズアップ現代」の内容が放送法に抵触すると認められたことから、放送法を所管する立場から必要な対応を行ったものであります。

2 また、放送法における番組準則に違反したか否かは、一義的には放送事業者が自ら判断するべきものですが、最終的な判断は、放送事業者からの事実関係を含めた報告を踏まえ、放送法を所管する総務大臣が行うものであります。つまり、放送法の番組準則は、単なる倫理規範ではなく、法規範性を有するものであります。

3 総務大臣による行政指導が拙速との指摘もなされていますが、4月9日のNHKによる調査委員会の中間報告で事実関係が概ね明らかであり、また、4月28日に最終の報告書が公表された後、その内容をしっかりと熟読し、一刻も早く具体的な再発防止体制を作っていきたいという強い思いから行政指導文章を作成したものであり、拙速との指摘は当たらないと考えています。

4 総務省としては、再発防止策をスピード感を持って取り組み、国民視聴者の信頼回復に努めていただきたいとの思いで行政指導を行ったところであり、NHKにおいては、公共放送としての社会的責任を深く認識し、放送法・番組基準などの遵守及びその徹底を行っていただきたいと考えております。

5 なお、行政指導とは、「処分」のように相手方に義務を課したり権利を制限したりするような法律上の拘束力はなく、相手方の自主的な協力を前提としているものであります。

これは恐らく総務省の事務方スタッフが書いた作文です。1993年の「椿事件」以降に表明した4条は法規範性を有する──という立場を繰り返したに過ぎません。というか…注意深くその路線を踏み外さないように言葉が選ばれてはいます。まだ節度はかろうじて残っている。
どういうことかというと「法規範」と言いきってしまうと、憲法との整合性がつかないので「性」を加え、強制力のある「行政処分」も又、法的拘束力を持ってしまうのであくまで「指導」にとどめ、相手からの自主的な是正を期待するという「自主自律」に目配せをした文言になっているからです。
高市大臣は、そのような趣旨がこの文書に込められていることをわかった上であえて誰かに気に入られたくてわざと──なのか、そもそもこの文書がどのような歴史を踏まえて書かれたものか知らず、もしくは学ぶ気がないか、どちらかしか僕は思いつかないのですが、これに続いて、公の場で発せられていく彼女の「言葉」は明らかにこの総務省と放送局の間で一応「運用上」のおとしどころとして受け継がれてきた放送法の解釈を大きく踏み外すことになります。
ここで全てを取り上げはしませんが、「政治的公平」はひとつの番組でも判断するという視聴者の会の質問状に対するリップサービス満点の答えや、行政指導しても全く改善されず繰り返したら「電波停止」をしないとはいえない、という発言を聞くと彼女は放送法だけではなく、先ほど触れた行政手続法における「行政指導」と「行政処分」の区別すらついていないようです。(これ実は僕も良くわからずに最近になって勉強したんですが)だって、この談話の5で自ら「行政指導」に強制力はないって言ってるんですから。どうしたらその先に「停波」が語れるのでしょう。このような齟齬そごをきたすのは、官僚の作文と大臣本人の発言が混在してしまっているからだと思うのですが。

行政手続法第32条2にはこうあります。
「行政指導に携わる者は、その相手方が行政指導に従わなかったことを理由として、不利益な取り扱いをしてはならない」
さて「電波停止」をちらつかせながら「指導」を続けるという高市大臣の態度はこの、彼女が「指導」の根拠として持ち出している、あくまで相手の自主的な是正を前提にすべき法律の解釈として、正しいのでしょうか。
高市大臣は「権限があると放送法に書いてあるから、あると発言しただけで、民主党政権の大臣も同じことを言っていた。」と、「行政の継続性」という言葉を使いながら、私だけ批判されるのは不当だ、と発言しています。
しかし、決して、その歴史を1993年以前に遡るようなことはしない。なぜなら、継続していないので都合が悪い。だから修正された後の歴史しか見ようとしないのです。

4条違反の罰則は放送法から削除されている
さて、いよいよ今回の私見のクライマックスの「停波」についてです。
前回の私見でも述べた通り、放送法には原則罰則規定が無い。
特にですね、第4条に応答する形での罰則は放送法制定のプロセスでGHQサイドの厳しい批判にあって削除したという歴史があるのです。
当初国側は、この4条を放送局を戦前同様公権力のコントロール下に置くために罰則規定にこだわっていました。
ですから1948年6月に国会に提出された放送法案の第88条の3に第四條第三項の規定に違反した者は、五千円以下の罰金に処する、と記してあった。
しかし、この法案に盛り込まれた4条(のちに倫理規定として復活)と88条(罰則)は占領軍の強い反対にあって削除されるわけです。
こんなものを法律に残したら「政府にその意志があれば、あらゆる種類の報道の真実あるいは批評を抑えることにこの條文を利用することができる」というのがその理由です。まぁ、隠していたその「意志」が見抜かれてしまったわけですね。(これは私見②でも指摘をしましたが)4条を巡っては、いったんは削除に応じる素振りを見せたあとでこっそり条文に復活させましたが、罰則は、削除されたまま、今に至っているのです。これが歴史的事実です。ここは非常に大切です。忘れないでください。
放送法4条の倫理規定(政府は法規範)に対する罰則は、本来あったものが削除されたままになっている。困ったのは公権力です。放送をコントロールする為には罰則が必要です。
で、いきなり電波法76条の「停波」の登場です。
遠すぎませんか?と私見②で指摘しました。
フリとウケとしては遠すぎる。
それはそもそも呼応していないから当然なのですが、どうしてもテレ朝の「椿発言」を罰したかった公権力が本来は4条には適用されるはずのなかった電波法を持ち出した。この点についてもう少し考えてみましょう。

電波法76条には確かに「停波」と書かれている。
文字通りに解釈すれば、それは公権力の(監督官庁の)権限なのでしょう。しかし。
放送法175条には総務大臣は、この法律の施行に必要な限度において、政令の定めるところより、放送事業者、基幹放送局提供事業者(略)に対しその業務に関し資料の提出を求めることができる。と書かれています。
これを受けて放送施行令7条に細かくその運用のルールが記されているのですが注目すべきはこの中で総務大臣が放送事業者の業務に関して提出を要求出来る資料から「放送番組の内容に関する事項」を明文で除外している点です。
これをどう考えるのか?
普通に読めば、停波の権限は資料の提出を求められていない番組内容を巡っては行使されない、と解釈されるのではないか?
だとしたら高市大臣の言っていることは法的根拠を失います。しかし、残念ながらそう簡単にはいかない。
放送法について学ぶ為の基本図書である、金澤薫の『放送法逐条解説』はこの件(放送法174条及び電波法76条の適用との関係)について、次のように説明しています。


『本法第175条に基づく執行令では資料提出の範囲から個々の放送番組の内容を除いていることから、放送事業者に個々の放送番組について資料提出義務はない。このことから本法第174条又は電波第76条の適用は番組の詳細に立ち入ることがなくともその違反が明白な場合に自ずと限定されることとなる。』

ということで、この、元郵政事務次官である金澤さんが番組をあらためて観なくても「停波」の権限行使が許容されるほどひどい番組の具体例として例示しているのが先日高市大臣がほぼそのまま口にした次のような番組ということになります。
①放送番組が放送されることが公益を害し、放送法又は電波法の目的に反するものであることから、将来に向けて阻止する必要があること。
③同一の事業者が同様の事態を繰り返し、再発防止の措置が十分ではなく放送事業者の自主規制に期待するのでは、本法第4条を遵守した放送が確保されないと認められること。
の要件に適合する場合には適用が可能と考えられる。しかしながら、この適用は第一義的には自主規制によるものであることを念頭に置き厳格に行う必要がある。

事務次官まで経験した金澤さんの解釈に僕のような素人が反論するのはおこがましいかも知れませんが、反論します。普通に、日本語として読んだ時に、この、放送法175条及び、施行令7条は、「番組の詳細に立ち入ることがなくても明白な」場合には適用出来る、のではなく、「番組の内容については、この法律(放174条、及び電第76条)は適用しない」からこそ番組の提出義務がない───そう考えるほうが妥当なのではないでしょうか。
ここだけはどうも金澤さんの解釈が、公権力の放送への介入、つまりは規律の根拠として4条をとらえるスキを残そうという政治的な意図を感じるのです。そもそも罰金刑で済まそうとしていた微罪に、死刑にも等しい「停波」を対応させようとして無理にこのふたつ(4条と76条)を結びつけた為に、現実的にはあり得ないような例え話をするしかなくなっている。
金澤さんより僕の解釈に添って読んだ方が、そもそも罰則として用意されていた条文が削除されているという歴史的な事実とも合致しますし、自主自律の精神とも馴染む。いかがでしょうか?
さらに。僕がそのように4条と電波法の76条を切り離すべきだと考える、もうひとつの根拠があるのですが、それは昭和33年に国会に提出された放送法改正案を巡っての次のようなやりとりです。

内閣法制局は4条に基づく番組への規律の権限を政府は持っていない、と言明していた


時は1958年10月31日。
場所は第三十回国会衆議院逓信委員会。
質疑は「電波監理委員会」の廃止に伴って、郵政相の諮問機関として設置される「電波監理審議会」の権限の範囲について。
この時の放送法49条1項には「電波監理審議会は(略)
放送の規律に関し、郵政大臣に対して必要な勧告をすることができる」とあり、この「放送規律」には放送番組の内容が含まれるのかどうかという点がひとつの焦点になりました。

──廣瀬政府委員
『電波監理審議会は放送法第一条の目的を達成するため設けられたものでありまして、かつ同審議会が郵政省の付属機関とされておりますので、放送法第四十九条第一項の規定によります勧告の範囲は、当然に放送法第一条の目的を達成するための範囲であります。かつ郵政大臣の権限の事項に限られるものと解釈できると思います。この場合に郵政大臣の権限に属する事項とは、内閣法、郵政省設置法、放送法、電波法その他の関係法令で定められておりまして、これらの法令上権限が認められております事項、このうちにはこれらの法令の改正のための手続も含んでおりますが、さような事項をいうのでございます。従いまして、放送法第一条もしくな第三条に反するごとき事項は放送の規律の中には含まれていないわけであります。』

これは間接的な表現ではありますが、郵政省は放送法1条・3条に反するような規律を放送局には求めることが出来ない、ということです。

──館野説明員
『(前略)四十九条の勧告の範囲につきまして、一体郵政大臣に、こういう条文があるから、そのことのために他の各案に規定しております以上に権限が与えられるものと解すべきかどうかということにつきましては、全般的に法制局と打ち合わせた結果、そういうものではない、新たな権限の付与でないということに政府として確定しておるわけであります。』

ここで内閣法制局が登場します。注目してください。

──小澤(貞)委員
『私はくどいようですが、これはだれが解釈しても放送の規律ということで、内容その他についてはいろいろ言う権限がないわけですね。(中略)善良な風俗とか教育の問題とか、番組の適正化だとか、そういうふうにいずれも抽象的なものでわからないものがあるわけです。そういうものが、だれかが逸脱しているんだと解釈した場合に、この放送の規律という問題で、それについて大臣が適当な処置をする道が開かれていると思うのですが、そういうことはできないのですね。放送の規律ということは、法律的にそうでしょう。今、大臣の見解とか次官の見解じゃないんですよ。法的にできないわけですね』

小澤さんは放送局を規律する根拠が本当にないか、しつこく質問を繰り返しています。

──石川説明員
『そうでして、言わずもがなのことと思いますが、法律の解釈は第一次的には、政府としては内閣の法制局が最終的に統一的な見解を出してあります。従って、いろいろな見解が出ましても、それは公式的なものではない。ただ問題といたしまして、この法制局の解釈がくつがえされますのは、御承知の通り最高裁の判決でくつがえることはございますが、それまでは政府といたしましては法制局の見解をとっております。従いまして、ただいまあとで御質問になりました点については、仰せの通りでございます』

この郵政政務次官の廣瀬さんと郵政省電波監理局の石川さんの答弁を要約すると、「番組審議会が放送に対して行いうる「規律」は、郵政省の持つ権限を超えるものではなく、従って放送法1条、および3条に反するような「規律」は含まれない。」
「番組内容についてはいろいろ言う権限が政府にはない」「政府としては内閣の法制局が(そのような権限がないという)最終的に統一的な見解を出していて、最高裁の判決でくつがえらない限り、政府としては法制局のこの見解に従う」

これに先立つ、第28回国会の政府答弁でも「郵政大臣が放送局に求め得る資料の中には放送番組編集の自由(3条)と背馳はいちするような、背馳するおそれがあるような事項は当然含まれない」と言明されている。
つまり「停波」などという厳罰を番組内容を巡って与えるのは番組編集の自由を定めた3条に反するので許されない。
だとするならば、この内閣法制局の統一見解が、くつがえらない限り、郵政省(総務省)に電波法76条によって番組内容に関して「規律」する権限は与えられないと考えるのが妥当なのではないか。
つまり、停波の権限は番組内容を巡っては行使出来ない。違いますか?
放送法1条・3条は今日まで書きかえられていない。何かこの歴史的事実をひっくり返すような最高裁の判決やそれによって生じた内閣法制局の4条についての正当な解釈の変更が存在するのでしょうか?
度重なるその後の放送法改正の中で、なしくずし的に変わったのでしょうか。
どなたか是非教えてください。
限られた時間の中で可能な限りの研究者の論文に目を通したつもりですが、今のところこれ以上明快な根拠になり得る資料に出会うことが出来なかったので、正直確信はありません。
金澤さんの解釈は非常に限定的な場合に限っているとはいえ、番組内容を巡って停波の権限を公権力に与える根拠になり得るので、行政側には評判がいいはずです。だから高市大臣も利用した。
もし、この、放送法4条、そして175条、施行令7条と電波法の76条「停波」の関係について、僕の解釈の間違いをご指摘いただける方がいたら御教示下さい。誤解であれば、謙虚に受け止めます。
よろしくお願いします。


さて。当初の予定をはるかに超える分量の論考になりました。
資料集め及び清書してくれた分福のスタッフも呆れています。
正直、これを全文ホームページにアップして読んで頂けるものなのか?やや不安ではありますが、個人的にはちょっとスッキリしました。
今回の私見は何らかの結論や提言に至ったりはしておりませんが、いったんここでペンを置きたいと思います。僕は再び本業である映画監督の仕事に戻ります。
しかし。今年、選挙をひかえて、放送に対し、そして恐らく僕も所属するBPOに対し、公権力の側から再び働きかけ(圧力)があるのではないか?と危惧されています。彼らが次に私たちの公共財である放送に対して、どのような攻撃を仕掛け、より強固な監督下に置こうと画策するのか?
逆に私たちひとりひとりがしっかりと監視をしなければなりません。その為には、局の垣根を越えて志ある放送人が、健全な民主主義の発展に資する放送を求める市民たちと、そしてそれらの実現をサポートするBPOとが、正しい歴史認識と情報を共有し連帯していく必要があります。頑張りましょう。
放送を巡る歴史修正主義に抗するために――――。

是枝裕和

主な参考文献・資料)
・『放送法を読みとく』鈴木秀美・山田健太・砂川浩慶=編著 商事法務
・『放送法逐条解説(改訂版)』金澤薫 一般財団法人情報通信振興会
・『テレビの憲法理論』長谷部恭男 弘文堂
・『テレビと権力』清水英夫 三省堂
・『「あるある」、椿発言などにみる番組内容への行政指導と放送法』鈴木秀美(「Journalism」2010.7)
・『放送の自律性の確保をめぐって』清水幹雄 (「放送研究と調査」1997年3月号)
・『放送法はどう解釈すべきか』小町谷育子  (「GALAC」2016.3)
・『電波監理委員会をめぐる議論の軌跡』村上聖一  (「放送研究と調査」2010年3月)
・『放送法は「放送取締り法」ではない』松田浩 (「放送レポート」2016年.1・2月号)
・『検証 放送法「番組準則」の形成過程~理念か規制か 交錯するGHQと日本側の思惑~』 村上聖一 (「放送研究と調査」APRIL.2008)
・『表現の自由のために ~番組編集準則は制作者の倫理確立を支える~』西土彰一郎 (「新聞研究」 2016.2)
・『違法な政府答弁に注意を』砂川浩慶 (「GALAC」2016.2)
・web.「すべてを疑え!!」坂本衛