MESSAGE

「放送」と「公権力」の関係について
~NHK総合「クローズアップ現代」“出家詐欺”報道に関するBPO(放送倫理検証委員会)の意見書公表を受けての私見~

2015年11月7日

少々長いサブタイトルになったことをまずご了承ください。
以下、本文もちょっと長いですが、出来るだけわかりやすくまとめますので、我慢して最後まで読んでいただけると嬉しいです。これは主には放送に携わる皆さんへ向けての文章になります。

はじめに
11月6日にBPOの委員長及び委員による記者会見が開かれ意見書が公表されました。僕の予想が正しければおそらく当事者であるNHKはともかく、他局のニュースの多くは意見書の中で述べられた「重大な放送倫理違反があった」という委員会の判断について大半の時間を割いているのではないでしょうか。(といっても2、3分のことだとは思いますが)
ここぞとばかりにNHKを叩き、「クロ現」はつぶしてしまえと声高に叫ぶ人たちの顔も何人かは浮かびます。もちろん意見書はそのような主張を支持するものではありませんが。

もうひとつの指摘
番組の「倫理違反」の指摘も大変大切ではありますが、実はもうひとつ今回の意見書では重要な指摘を行っています。
それは「おわりに」の中で述べられた公権力による放送への介入についての部分です。(ご興味とお時間のある方はBPOのホームページをご覧下さい。全文がアップされているはずです)僕の危惧が杞憂に終わっていれば良いのですが、この2つ目の指摘がいろいろな思惑からメディア自身によってスルーされるのではないかという不安からペンをとることにした次第です。
意見書の中でも触れていますが、今回問題を指摘された2014年5月14日放送の「クローズアップ現代」に対しては総務大臣の厳重注意や自民党の情報通信戦略調査会なるものから放送局に対して事情聴取が行われました。
それらの要求を拒否するのか、のこのこ出向くのかは主には放送局自身の判断によるべきものだとは思います。にもかかわらず放送局にとっては部外者でしかない僕があえてこの一連の公権力と放送局の関係を巡る事案に対して個人的に声をあげようと思ったのは、別の(根は同じなのですが)ある発言がきっかけになっています。

「放送法」「お手盛り」「独立機関」
それはこの「戦略調査会」の会長である川崎二郎議員が「報道ステーション」での古賀茂明さんの「菅官房長官による番組への圧力」発言と、今回の「クローズアップ現代」について言及したものでした。

発言は今年の4月17日付です。新聞やネットに発表された発言の要点を簡潔に紹介します。

「ふたつの番組は、放送法の(禁じる)真実ではない放送がされていたのではないか。真実を曲げた放送がされるならば、それは法律に基づいて対応させてもらう。独占的に電波を与えられて放送を流すテレビ局に対して、例えば停波の権限まであるのが放送法だ。(報道ステーションの中で)名誉を傷つけられた菅義偉官房長官がBPOに訴えることになれば、それは正規の方法だ。BPOが「お手盛り」と言われるなら少し変えなければならないという思いはある。テレビ局がお金を出し合っている機関ではチェックができないならば独立した機関の方がいい」

発言が僕も所属するBPOに直接言及されているので、これはさすがにスルーすることは出来ない。機会があればBPOを通してか、もしくは個人的にきちんと反論をしておくべきだと考えていました。少し遅くなりましたがBPOの公式の意見書発表を待ったほうが良いだろうと判断したためなのでお許しください。

さて、ここで川崎会長の使った「放送法」「お手盛り」「独立した機関」という言葉についてちょっと自分なりに考えてみたいと思います。

「不偏不党」は誰の義務なのか?
まず放送法です。そもそもこの法律そのものが「憲法違反」の疑いが色濃い部分も多々あって(特に21条〈表現の自由〉)運用面ではかなり注意が必要なのですが、ひとまず今回はその点については触れません。
別の機会に譲ります。 今回注目したいのは意見書の「おわりに」でも触れた第1条です。第1条ですから、もちろん一番大切なことがここには記されています。
どんなことが書かれているか?
第1条二号にはこうあります。
「放送の不偏不党、真実及び自律を保障することによって、放送による表現の自由を確保する」
ややわかりにくい表現かも知れませんがここで述べられている「不偏不党」を「保障」する主体は明らかに公権力です。放送事業者に「不偏不党」を義務付けているのではありません。
それは憲法21条や23条(学問の自由)等の保障の主体が公権力であるのと同じです。そして、電波三法の成立にまでさかのぼって調べてみればその主張の根拠がよりはっきりします。

1950年1月24日に開かれた第7回国会「衆院電気通信委員会 電波三法提案理由説明」の中で政府委員の綱島毅電波監理庁長官が行った提案理由説明にはこうあります。


(重いです)

「放送番組につきましては、第1条に、放送による表現の自由を根本原則として掲げまして、政府は放送番組に対する検閲、監督等は一切行わないのでございます。放送番組の編集は、放送事業者の自律にまかされてはありますが、全然放任しているのではございません。この法律のうちで放送の準則ともいうべきものが規律されておりまして、この法律で番組を編成することになっております。」
(日高六郎編『戦後資料 マスコミ』日本評論社. 118頁)

保障するのは誰なのか?
つまりどういうことかと言うと、第1条は放送従事者に向けられているのではなく政府(公権力)の自戒の言葉であることを、政府自らが明らかにしているんですね。
なぜそんな自戒の規定が必要だったかと言えば、それは放送という媒体がその成り立ちや電波という物理的性格からいって公権力の干渉を招きやすいメディアであるからなのです。敗戦の5年後にこの議論が行われていることに注目しなくてはいけません。つまりは「公権力」と「放送」が結託したことによってもたらされた不幸な過去への反省からこの「放送法」はスタートしているわけです。
放送法のこの条文を前後も含めてもう少しわかりやすく現代語訳するとこうなります。

「我々(公権力)の意向を忖度したりするとまたこの間みたいな失敗を繰り返しちゃうから、そんなことは気にせずに真実を追求してよ。その為のあなた方の自由は憲法で保障されてるのと同様に私たちが保障するからご心配なく。だけど電波は限られてるから、そこんとこは自分たちで考えて慎重にね。」

このあたりの考え方にどの程度アメリカの思惑が反映しているのかは研究の必要があるかとは思いますが、これはこれで民主主義の成熟の為に「権力」が「公共」に対して示すべき大人の対応だと思います。


(薄くてオススメです)

誰が放送法に違反しているのか?
「私見」と見出しには書きましたが、このあたりの解釈、考え方は僕個人のものではありません。
95年に出版された“放送倫理ブックレットNo.1『公正・公平』のなかの「憲法と放送法 - 放送の自由と責任」”という清水英夫(青山学院大学名誉教授〈当時〉)さんの文章からの受け売りです。この小冊子は1993年に、テレビ朝日のいわゆる「椿発言」を巡って当時の放送局の報道局長に対して国会で証人喚問が行なわれる事態に至った「放送と公権力」の緊急事態を踏まえた上で執筆、出版されたものです。
清水さんはこうも言っています。
「論者の中には、この放送法一条二号の規定は、公権力のみならず放送事業者の義務をも定めたものだ、という見解がないわけではない。しかし、放送法一条二号をそのように解釈すべきでないことは、憲法的見地のみならず、放送法の立法過程からも、きわめて明らかである」と。

今回のBPOの意見書で述べられている公権力と放送の関係についてのスタンスも、大旨この清水さんの見解に添ったものになっていると思います。
繰り返しますが「不偏不党」は放送局が求められているのではなく、「公権力」が放送局に保障しているのです。安易な介入はむしろ公権力自身が放送法に違反していると考えられます。にもかかわらず、そのこと自体を公権力も多くの放送従事者もそして視聴者も逆に受けとってしまっていることから、一連の介入が許し許されている。公権力はあたかも当然の権利であるかのように「圧力」として、放送局は真実を追求することを放棄した「言い訳」として、「両論併記」だ「中立」だなどという言葉を口にする事態を招いているのです。
作り手にとって「不偏不党」とは何よりもまず、自分の頭で考えるということです。考え続けるということです。安易な「両論併記」で声の大きい人たちから叩かれないようにしようなどという姑息な態度は単なる作り手の「思考停止」であり、視聴者の思考が成熟していくことをむしろ妨げているのだということを肝に銘じてください。放送を巡る不幸の原因がそこにあるのだということを、まず作り手が理解することです。
少なくとも「放送法」をその成り立ちまで逆のぼって読み理解しようとすれば、政治家が安易に「停波」などというおどしの言葉を口にすることはないはずです。そもそもこの川崎委員長が口にした停波の権限は確かに電波法の第76条に記されたものですが、これが放送番組の内容の是非を巡って「行政罰」と結びつけて解釈されることはない、というのが議論を重ねてきた学界の通説です。


(勉強になります)

例えば、元総務省事務次官の金澤薫さんは『電波法の76条に基づく処分は、放送法3条に「放送番組編集の自由」が規定されこれを踏まえて「自主規制を原則とする」ことが法の趣旨になっている以上、形式的には可能だが現実的には適用できない』(要約)と述べています。放送への介入の権限を監督省庁である自らに認める立場をとってきた総務省でさえ、これがぎりぎりの認識です。
(放送法と表現の自由~BPO放送法研究会報告書~ P.85より)


だから、総務大臣でもない川崎(二郎)さんが、いったいどのような権限に基づいて局員を呼びつけたり「停波」を口にしているのか僕にはその根拠が皆目わかりませんが、もしかすると、この人はそのような歴史の積み重ねを知らないふりをしているか、そもそも無知なのかどちらかでしょう。
ここでもう一度強調しておきたいことは、放送従事者は「不偏不党」という言葉によって自らの手や足をしばり耳や口をふさぐ必要はないということです。逆です。これは「憲法」と「公権力」と「私たち」の関係と同様に捉えるべきものなのです。そのことを是非理解した上で番組制作にあたって欲しいと思います。

誰が誰から独立するべきなのか?
次にBPOが「お手盛り」でチェックが甘くなるのなら「独立した機関」にしたら、という趣旨の発言について考えてみましょう。この「独立」とはどういうことか。恐らく放送を教育同様、公(パブリック)から独立(離脱)させ国(ナショナル)の元に取り戻すという、現政権が、あらゆる分野で行なっている取り組みと同趣旨のものでしょう。これが具体化されるとBPOには政府関係者(元総務省官僚等)の天下りが政府と一体化した委員として送り込まれることになるはずです。もし、そんなことを受け入れたらそれこそ公権力に対する「チェック」が「お手盛り」になるという民主主義の根幹を揺るがす事態が今以上に進行してしまうことはNHKの会長人事を見れば火を見るより明らかでしょう。放送が「国営」ではなく「公共」であることの意味を真摯に考えるならば独立させなければいけないのは放送局とBPOの関係ではなく明らかに権力と放送局の方でしょう。実質的に「予算の執行権」を握られているような(NHKのケース)力関係ではチェックが「お手盛り」になる危険性を排除できませんから。しかし、もし公権力だけにとどまらず、視聴者も、つまりは国民の総意として「公共」放送を目先の「国益」を最優先に考えるような価値観に染め上げられた「国営」放送=大本営発表にすることを望むのであれば、話しは違ってきます。僕は望みません。現行の放送法も少なくともそのような「放送」を支持していない。なぜならそれは放送局が自主と自律を自ら放棄することを意味するからです。一制作者としてもBPOの委員としても不満はいろいろありますが、今までの放送法を巡る議論の歴史的な経緯を踏まえ、その趣旨を理解した上でお互いに慎重に運用していくべきだと、ひとまず思います。

BPO=政治倫理審査会?
BPOが「お手盛り」ではないことの証明は、ここで僕が口で否定するよりはやはり今回のような「意見書」を公表して、放送局の自主自律をきちんと支え、ある時は監視し、ある時は応援するということを続けていくことで示すしかないでしょう。
その為の努力はしているつもりでいます。今回の意見書は力作です。是非、読んでみて下さい。
少なくとも私たち検証委員の中には放送局の局員や関係者はひとりもいません。番組制作会社出身の僕が最も局とは利害関係が強いかも知れませんけれども。例えば政治家の倫理を審査する為に国会に設置された「政治倫理審査会」と比べてみるとわかりやすいのではないでしょうか。
この審査会で政治家が“行為規範”等の規定に著しく違反し、道義的責任があると認められた場合、委員の3分の2以上の賛成で一定期間の登院自粛や国会役職辞任などを勧告できるとされています。
しかし、1985年の設置以来30年間!ただの一度もこうした勧告は行われておりません。ただの一度もですよ。なぜでしょう。勧告が行われない理由は3つ考えられます。日本の政治家がとても倫理的であるか?規範がユルユルなのか?審査が「お手盛り」なのか?果たしてどれでしょうか。
政倫審のメンバーは同業者(政治家)です。よっぽど倫理的な議員ならともかく、多くの方々は「明日はわが身」と考えたらそりゃあ処分どころか勧告すら出せないでしょう。今こうやって書いていて驚いてしまいましたが、これを「お手盛り」と言わずして何をお手盛りと呼ぶのでしょうか。
お互いにチェックが甘くなるのであればやはり同業者をメンバーから排除した「独立した機関」にするべきなのではないかと逆に提案させていただきますが、いかがでしょう。せめてBPO程度には。

おわりに ~駆け込み寺ではなく防波堤として~
少なくともBPOは番組倫理検証委員会だけでも今年3つの意見、見解を公表しています。放送局はその提言を受けて3ヶ月以内に改善策を提出する義務を負いますし、その番組に関わった局員に対しては停職や減棒を含む処分も下されます。これが僕が所属していたような番組制作会社だったら、もっと厳しいですよ。会社がつぶれることだってありますし、業界から事実上追放されるスタッフもいます。ある意味、このような厳しい自浄作用、淘汰はそれこそ限られた電波というある種の権力を手にする以上は仕方ないことだと僕は考えています。視聴者の目が厳しくなるのも当然でしょう。そのあらゆる方面からの批判に耐えられるだけのタフさと、ある種の鈍感力が、今の放送人には必要とされるのかも知れません。

最後は何だか皮肉っぽくなってしまいました。直接執筆したわけではないのですが、公表された「意見書」の中で「放送」と「公権力」に関する重要な見解を表明できたことを、同じ委員会に所属するメンバーとしてちょっぴり誇りに思っています。
BPOは総務省の代りに番組に対して細々とダメ出しをすることを目的とする組織だと思っている人は放送局の中にも多いとは思います。しかし、それは誤りです。もちろんダメ出しはします。ただ、それはあんまりいい加減なことをしていると放送の自主自律がおびやかされるからなのであって、本来の意味は公権力が放送に介入することへの「防波堤」だと僕自身はずっと認識してきました。
近年BPOには政治家や政党から、番組内で自身や自身の主張が一方的に批判されたり不当に扱われており放送法に定められた「政治的公平」に反しているといった異議申し立てが相次いでいます。自分たちを批判するコメンテーターを差し替えろなどといった番組内容に直接言及するような要求までなされています。
BPOは政治家たちの駆け込み寺ではありません。ここまで僕の文章を読んでいただいた方はもうおわかりだと思いますが、保障するべき立場の政治家たちが 「政治的公平」を声高に訴える行為そのものが、放送(局)の不偏不党を、つまりは放送法を自ら踏みにじることなのだという自覚の欠如を端的に示しています。
「批判を受けた」放送人が考えなくてはいけないのは、批判の理由が果して本当に公平感を欠いたものだったのか?それとも政治家にとって不都合な真実が暴かれたからなのか?その一点につきるでしょう。後者であるならば、まさに放送法に記されている通り、誰にも邪魔されずにその「真実」を追究する自由は保障されていますし、BPOもそんなあなたの取り組みを全面的に支持するでしょう。
今回の意見書には、そんなBPO本来の姿がいつにも増して表明されていると思います。憲法ほどではないにせよ放送や「放送法」にも積み重ねてきた議論の歴史というものがあります。それをしっかりと理解することで、番組制作者はより自由を手にすることが出来る。それは公権力の介入に抗する自由です。もちろん、その自由を獲得するためには放送人ひとりひとりに不断の努力が求められることは明らかです。それこそが「自主、自律」なのですから。

以上です。
僕はこれを、同業者である放送人へのエールとして書きました。
最後まで読んでいただいたみなさま、ありがとうございました。

是枝裕和