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『選挙時期における報道の公平中立ならびに公正の確保についてのお願い』についての
私見

2014年12月13日

選挙時期だろうがなかろうが、報道に関わっていようがいまいが、局員であろうが、制作会社のスタッフであろうが、放送を業(なりわい)にするものは、そして真摯に自らの職業と向き合ったことが一度でもあるならば、公平中立公正であるとはどういうことか?その難解な問いを前にして悩み、立ちすくみ、怖れた経験が一度はあるに違いない。そして、真摯に考えれば考えるほど、それが、今回自民党筆頭副幹事長と報道局長の連名で在京テレビキー局各社に宛てて出された『お願い』にあるような、出演者の発言回数や時間を機械的に同じにしたり街角インタビューの賛成反対を同数にしたりといった小手先の姑息な技術によっては決して獲得できないものであることに気付くはずである。にもかかわらずそのような態度を放送人に求め、または、そのような態度を甘んじて受け入れようとするのは、真の公平さとは何かを考え続けることを放棄し、訴えられた時に裁判で負けないための言い訳を考える姑息な弁護士か、放送の自主自律を軽んじて恥じない人間の仕業である。もちろん、街角インタビューで取材した、賛成と反対の声をどのように編集し構成するかは、制作者が何を意図するかによって必ずしも同数になるとは限らない。スタジオに呼んだゲストに充分反論の機会を与える形で反対意見をぶつけるのは、むしろ制作者の誠実で公平な態度の表れであろう。

ゲストは、ましてやそれが政治家であるならば尚更、このような機会を与えられたことに感謝し、自らの正当性を主張するチャンスだと考えるのが普通だ。そのチャンスを活かすことが出来ない原因は、当人のコミュニケーション能力の、つまりは反射神経や動体視力が鈍いからであって、それを放送の公平性の欠如のせいにされてはたまったものではない。

そもそも両論併記するのは、本来それに触れた者にさらなる思考の深まりを促す為の一つの手段に過ぎない。にもかかわらずそれを、番組の公平性を保つ充分条件だと考え、そこで思考停止していては、視聴者の、ひいては社会の成熟を促すことなどどうしてできようか。今回の『お願い』は、その意図が露骨で稚拙で不遜であるが故に、逆に、放送は誰のものなのか?を考える良い機会になり得るのではないか?いや、そう考えることでしか、権力から放送へのこの異常な介入をポジティブに捉える術が、ない。果たして放送は、スポンサーのものなのか?権力の広報なのか?どちらでもないとするならば、放送人は何に依って自らを律するべきなのか?考え続ける必要がある。

この恫喝としか読めない『お願い』に対して何らリアクションを起こさない放送局の沈黙が意味するものが怯えた黙認ではなく余裕の黙殺であるならば、私の抱いた不安や危惧は杞憂に過ぎないのだが、果たしてどちらであるのだろう?放送が公共であって、国営ではないということ、その複雑な立ち位置とどう向き合い、何と対峙していくのか?放送局のその覚悟と矜恃を期待しつつ、注視し続ける必要が私たちにはある。それはもちろん、選挙時期に限ったことでは、ない。

是枝裕和