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カンヌ映画祭から戻って

2013年6月2日

『そして父になる』のカンヌ映画祭への参加が決まると日本では「受賞レース」「強豪に挑む」などといった勇ましい見出しがネットのニュースや新聞紙面に躍った。お祭りであるわけだからオッズをつけて賭けの対象にしたり、星取表の星の数に一喜一憂したりするのも、楽しみ方のひとつだとは思う。しかし、「レース」だけに視界を狭めてしまうと映画祭の本質を見誤ることになりかねない。優劣を競うという直線的な感覚は映画祭に参加する側の気持ちとはかなりかけ離れているのである。実はもっと豊かで複雑な体験なのだ。

カンヌ映画祭には毎年世界中から2000本近くの応募作がある。その中でコンペティション部門に選ばれるのは20本足らず。ではこの20本は何を基準に選ばれているのか?映画祭は競技会ではないので予選を突破した者たちの中で記録の良い順にトップ20が選ばれているわけではもちろんない。
映画祭のディレクター、ティエリー・フレモー氏のインタビューや直接やりとりした言葉から判断すると、彼が最も重視しているのは映画の「多様性」である。彼は、このコンペの20本とある視点部門の20本。計40本のオフィシャルセレクション作品によって2013年の映画の世界地図を描こうとしてるのではないか?そんなふうに僕は考えている。

世界で最も注目度の高いこの映画祭に出品するというのは、作品の父親である監督としては、大切に育てた子どもをはじめて世間の荒波にひとりで放り込む気分である。子どもたちに対する評価は主に5つの異なる角度から加えられる。
まず、選定委員によって20本に選ばれたという評価。これが一つ目の基準になる。二つ目は、しばしば拍手やブーイングの量で判断される一般の観客の満足度。次に上映翌日からいっせいに新聞、雑誌に掲載される専門家による批評や星取り表(まぁ芸術性とでもいうべきか)。さらにここにマーケットでの評価(商品として売れるか売れないか)が重なってくる。どこの配給会社がどの映画をいくらで買ったかという情報が町中を飛び交い、まぁ、札束も飛び交う訳で。「戦い」という表現がふさわしい場所があるとすれば、それはレッドカーペットの上ではなくむしろこちらだと思う。そして5つ目に最大のイベントとして審査員の判断が発表され、祭りは幕を閉じる。5つの価値観はお互いの存在意義とプライドをかけて対峙し、批評し合う。どの評価も絶対的ではなく、審査結果に対して記者たちが直接ブーイングをすることさえあるのだ。
しかし、その態度が不謹慎、不見識などとは言われない。その重層的な評価の乱反射こそ健全であり、映画祭の豊かさなのだとみな知っているからだ。出品作と出品人はこの乱反射の中を右往左往しながら、時に怒り、落胆し、時に、自分の作品や自分自身について、観客の感想や記者の質問によって目からうろこの落ちるような気付きの体験をする。答えをひとつにすることで安心しがちな日本人にとって、当初この「混乱」はなかなか受け入れがたいかも知れない。しかし、この荒波を泳ぎきった時、作品も監督も確実に鍛えられ(タフになり)成長している。

作品のどこが評価されたと思うか?(これも日本メディア特有の質問なのだが)今までの作品とどこが違うのか?と繰り返し聞かれた。
この『そして父になる』という映画が描いた、父と子をつなぐのは血か?ともに過ごした時間か?という問い掛けは、日本以上に養子という制度の定着したヨーロッパの人々にとって身近で切実だったのは確かだろうと思う。
しかし、やはり自分としてはこの一作だけではなく、コンペには選ばれなかった前作、前々作の存在を忘れないでおきたい。
たとえば『歩いても歩いても』(08年)や『奇跡』(12年)といった僕の過去作品はヨーロッパ各地で劇場公開され、『歩いても~』はパリで日本以上の観客を集めた。『奇跡』もこの春ロンドンで公開され、僕の作品の中では一番のヒットとなっている。このような目立たない地道なつみ重ねが、少しずつ、フランスの観客に僕の作品の世界観を浸透させたその影響も今回の結果には反映されたのではないかと自負している。

今年のカンヌ映画祭には日本からコンペに2作品が入り、主演の方々もそれぞれ現地入りした。審査員にも河瀬監督が選ばれたことで日本のメディアの注目度も例年に比べかなり高かったように思う。こんな状況下でもし、賞(レース)にからまなかったら恐らく日本の多くのメディアはコンペに選ばれたという評価は棚上げし、僕たちの体験や感動のディテールなどは全く無かったかのように「残念な結果」だけを報じてそのレポートを終わりにしただろう。そのことでキャストとスタッフと一緒に経験したあの長く熱い観客の拍手の真実味が否定されるのは耐え難かった。
だから、審査員賞の受賞は嬉しいというよりも正直ホッとしたというほうが近い。もちろん「日本映画が快挙」と言われれば悪い気はしない。しかし、今回の報道のされ方は映画祭全体を反映していない。一秒でも多く『そして父になる』の映像を流してもらうべく放送局との折衝にしのぎをけずっている宣伝スタッフのことを考えると、僕としてはなかなか言いにくいのだけれど、せめてパルムドールの作品と監督の紹介にはもう少し時間を割いてしかるべきだったろう。そこには日本選手のメダル獲得だけに注目するオリンピック報道と同様の違和感を持った。

映画祭の会場内には国旗は掲げられない。同じ祭でもオリンピックとの差はそこにある。いったい映画における国籍とは何なのだろう?日本映画とは果たして何なのだろうか?それはどれほど自明のことなのだろうか?
脚本賞を獲った中国のジャ・ジャンクー監督作品『タッチ・オブ・シン』。この作品のプロデューサーはオフィス北野の市山尚三さんだ。日本では今回の受賞結果の報道のなかでは市山さんにはあまり触れられていないが、彼はジャ監督の才能に惚れ込みデビュー直後からずっとサポートし続けている。
パルムドールを獲ったフランス映画『アデルの人生』のケシシュ監督はチュニジア出身。コンペに出品された『ジミー・ピー』はデプレシャン監督が母国を離れアメリカで撮った全編英語のフランス(出資)映画らしい。ある視点部門のグランプリを獲得したのは『ザ・ミッシング・ピクチャー』。監督はリティ・パニュ。クメール・ルージュのカンボジアでの虐殺をテーマに自分史を語るドキュメンタリーだという。この作品もフランスとカンボジアの合作だ。
映画とその監督の出自や言語は複雑につながり、断絶している。映画の豊かな現在は、その複雑さにこそある。民族や地域や言語を横断したこの受賞作群こそが、まさにティエリー氏の考える今日的な「多様性」の体現であるのだろう。

映画はまぎれもなく世界言語である。多様性を背景にしながら、その差異を軽々と越境し、みなが映画の住人としてつながれるというこの豊かさ。その豊かさの前に、現住所は意味を、失う。
クールジャパンなるかけ声のもとに、政府も日本のポップカルチャーを海外にどんどん輸出させようと、遅まきながら取り組んでいる。もちろん映画にもそのサポート自体は必要だ。問題はどのような哲学を持ってそれをするのか?ということだ。
日本のオリンピック招致活動を見ていて思うのは本来ならスポーツという文化のために何が出来るかを考えるべきオリンピック開催を「今、私たちにはオリンピックが必要だ」といった文言で主客を逆転させ、文化を矮小化しているという点にある。映画へのサポートが同様の過ちを犯さないことを願うばかりだが、果たして彼らが考える「日本映画」の中に『タッチ・オブ・シン』は含まれるだろうか?もし含まれるのならそれこそを「クール」と呼びたいのだが、単純に映画の海外進出によって外貨を獲得しようという発想であるならば、そんな態度は「クール」からはほど遠いと言わざるを得ない。

本音はともかく「映画の多様性に貢献するために」、つまりは映画文化そのもののために何が出来るのか?そのような価値観を掲げて臨まない限り、その取り組みが世界の映画人から尊敬されることはないだろうし、ましてやそのアプローチが映画の現在に結びつくこともあり得ない。
何と、誰と、作品や監督が血縁を築くかは、人間と同じく、出自だけで決まるほど単純なわけではないのだ。幸か不幸か、最もその出自とのつながりに疑いを持っていないのが、この日本であり、日本のメディアであり、日本映画であるのかも知れない。そんなことを考えた12日間だった。

是枝裕和

※この原稿は共同通信から配信した記事の完全版です